タケル・イダイヤの冒険

ぐるぐる巡る想念【オタク道と哲学】

2つの異なる動画において、著名な批評家2名がある同一と思われる事項について語っていたので、その興味深い事実についてここで述べたい。
まず、一人目の岡田斗司夫氏が語っていたのは「オタク道」についてである(岡田斗司夫ゼミ#433「オタク道を生かした豊かな生き方」)。 氏は、「オタク」の大部分を、ある特定の作品に執着してキャラを推し、それについてコレクションをする者たちであると定義する。
また、その一方で多数派と一線を画し、作品を言語化し、関連付け、伝承するという「オタク道」なる道を歩む者たちが存在すると語った。 ここでいう言語化とは、その作品について思考することであり、具体的には作者のメッセージ、作品の優劣点等についての思考である。 そして、そこから作品間の共通点、影響の度合い、文化全体の史実等にその思考の間口を広げることを関連付と言う。 最後に、それらを自身の頭に留めず、口頭或いはSNSを通して拡散するという行為を伝承と言い、 これらの変態的行為を岡田斗司夫氏はオタク道と称したのである。これは正に岡田斗司夫ゼミの活動そのものと言える。

続いて東浩紀氏だが、彼はYouTubeチャンネル「ReHacQ」23.10.1「【成田悠輔vs東浩紀】なぜ大学辞め独立メディアを?【哲学とは何か】」に 出演した際、哲学とは他の学問に横槍を入れたり、他の学問同士の共通点を見出す学問であると述べた。 また、そういう姿勢は多かれ少なかれ哲学者と呼ばれる人々の姿勢に共通しており、古くはソクラテス、そしてカントの、 哲学とは他の学問に対してその条件を問う学問であるという位置付けとも合致すると述べた。

今挙げた2つの事柄は、他のコンテンツ(学問)を称賛或いは批判し(横槍を入れ)、それらを関連付(共通点を見い出し、条件を問い体系化し)、 伝承していく(哲学者として語り継がれていく)というようにその構成が合致している。
これについて、東浩紀氏が同番組において哲学者の知識を蓄えた(大学において哲学と言われている学問行動)者同士の会話をオタク的会話と称していることが 非常に示唆深い。
また、東浩紀氏が哲学の実践として挙げていたデリダの脱構築(概念の読み替えを指し、この物語には実は異なるメッセージがあるのではないか、的な行為) は、オタク達がコンテンツに作者が込めたメッセージを議論する行動そのものであると言える。

ここまでの話をまとめると、オタク道=哲学ではなく、哲学的行動原理を現代のエンタメ・サブカルについて行う者、そしてその行動がオタクと 呼ばれているということではないだろうか。
何だか、既に自明となっていることのような気がしてならないが、そういうことに自ら気がつくということが何より大事である。

さて、上記で述べた哲学的行動原理についての独特な表現を当サイトでは度々使用している。
それは、ぐるぐる巡る想念のことである。
・リアルワールド(作:桐野夏生)の感想では以下のように「ぐるぐる巡る想念」の説明を引用している。
「あたしの大好きな、ぐるぐる巡る想念がなさ過ぎるんだもの。考えることを忌避しているんだもの。 わかりやす過ぎるんだもの。 そういうわかりやすさで自分の懊悩を単純化するな、と怒りを感じた。」
本作は殺人、逃走、交通事故やら物騒事が頻発するストーリーであり、上記発言者の少女はこの後自殺してしまう。その点では一見ここまでの話 (コンテンツについて激考するオタク達)との共通項はないように思えるが、考える対象が「萌えキャラ」なのか 「友達の死を招いた自身の行動(上記少女は、自身の行動の結果友人の少女を死なせてしまったことを悔やみ自殺する)」であるのかという、対象の軽重の違いで しかないというのがその実である。

つまり、「ぐるぐる巡る想念」はコンテンツ(学問)を称賛或いは批判し(横槍を入れ)〜伝承していく(哲学者として語り継がれていく)という一連の流れを 一言で表した言葉であるという訳だ。これからも当サイトでは私なりの「ぐるぐる巡る想念」が展開されていくことだろう。

参考:・君たちはどう生きるか(映画)(監督:宮崎駿)の感想
『君どうに戻ると、...千と千尋が天に二物を与えられただけで、両作はやはりストーリーとは別のところにも魅力があるタイプの作品と言える。 それは、リアルワールド(作:桐野夏生)で言う「ぐるぐる巡る想念」の為の餌がふんだんに散りばめられているということであり、 わかりやすく言えば考察しがいのある作品ということである。君どうのストーリーは...「わからない」作品である。 そして、このわからなさこそが「ぐるぐる巡る想念」 のトリガーであり、そういう意味では優秀賞に値すると言って良い。
...岡田斗司夫氏などは私に言わせれば 「ぐるぐる巡る想念」に取り憑かれた人物であり、つまり私もそういう「ぐるぐる巡る想念」の虜であるから、 ストーリーだけを見て ため息をつくなんてことにはならないのだ。』