タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

君たちはどう生きるか(映画)(監督:宮崎駿)の感想

まず始めに、日本エンタメ界の歴史で燦然と輝くジブリを、宮崎駿の作品をついに劇場で観ることができたという、この 言いようのない感動と満足感を、そして彼らへの最大の感謝を記す。ありがとう、ジブリ。

どう考えても文末に記すところから始めてしまったわけだが、気を取り直して「君どう」であるが、私が一番ジブリで愛してやまない千と千尋には 劣るかもしれない。そう簡単に比べられるものではないが、別世界へ迷い込み、擬人化?した動物達に混乱させられるというストーリーは両作に共通する。 では、具体的に何が劣っていたのかというと、「不気味さ」だ。「不気味さ」とは一体何か。 それは、曲「竜の少年」と共に屋台に明かりが灯り、黒いアメーバ状の化け物達が突如として現れ両親は意思の通じない醜い豚に変化し、 屋台舟から巨漢の怪しげな化け物達が降りてくる、この一連の流れそのものだ。こういう場面を私は「不気味さ」と表している。 この「不気味さ」は現実編と別世界編との区切りを生じさせ、えも言われぬワクワク感を視聴者に与えてくれる。

また、アメーバ化物や豚、湯屋に登場する蛙男、ナメクジ女、ヒヨコ神、三首男、カオナシ等別世界の生き物達は皆一様に、 決して「カワイイ」とは形容できない独特な雰囲気を纏っている。彼らもまたジブリと宮崎駿にしか創れない者達であり、 「不気味さ」の演出に大きく貢献している存在だ。そういう意味で、本作のインコ達の、無垢な顔つきからは想像もできない残酷な所業、 異常な社会化、やたらなインコ口密度など全てが不気味で、ジブリの真髄を魅せてくれた。と同時に、「湯屋」と「大叔父様の理想の世界」という 舞台設定の差から生じる仕方ない部分なのかもしれないが全体的な「不気味さ」では前者の方が一枚も二枚も上手だったと感じた。

しかし、ここまで書き終えてふと思ったが君どうの7婆達の初登場シーンはどう考えても「不気味さ」演出に他ならなかった。 千と千尋の別世界の入り口にある祠もそうだ。私は「不気味さ」が現実編と別世界編との区切りを感じさせると言ったが、それを持って 「不気味さ」が別世界だけの物であるということにはならない。しかし、君どうの方の別世界の入り口は千と千尋程にハッキリしているわけではなく、 婆の、この家では不思議なことが起きるとの発言からも、あの屋敷という空間が既に別世界に片足を突っ込んでいるような状況にあったり、 又はなかったりするのかもしれないということができるのではないだろうか。

「不気味さ」では千と千尋に劣る君どうだが、ストーリーはどうか。結論、こちらも千と千尋の勝ちだろう。 最初は、どちらもストーリーに魅力のある作品とは捉えていないから比較する価値などない、などとカッコつけたことを 言いたかったのだが、千と千尋をよくよく考えてみると、豚にされた両親を助けるという目的の明確さ、得体の知れない屋敷の冒険、 意気地なしで礼儀知らずの子供っぽい主人公の人間的成長、友情と愛情、欲望の怖さ、意志の欠如という哲学など様々な要素が盛り込まれながら 一本軸の通った王道的なストーリーが展開されていることに気づき、今更ながらちょっと感嘆してしまった。

冒頭から、千と千尋に触れ過ぎているわけだが、君どうに戻ると、 先ほどのカッコつけ発言は、実は的外れでもないかもしれない。 千と千尋が天に二物を与えられただけで、両作はやはりストーリーとは別のところにも魅力があるタイプの作品と言える。 それは、リアルワールド(作:桐野夏生)で言う「ぐるぐる巡る想念」の為の餌がふんだんに散りばめられているということであり、 わかりやすく言えば考察しがいのある作品ということである。君どうのストーリーは千と千尋のように面白いというわけではないが、 かといってつまらないと両断することもできない「わからない」作品である。そして、このわからなさこそが「ぐるぐる巡る想念」 のトリガーであり、そういう意味では優秀賞に値すると言って良い。しかし、岡田斗司夫氏によれば宮崎駿氏のストーリーの説明不足さは 今に始まった物ではなく、多くのジブリ作品に共通する魅力であるらしい。ちなみに、岡田斗司夫氏などは私に言わせれば 「ぐるぐる巡る想念」に取り憑かれた人物であり、つまり私もそういう「ぐるぐる巡る想念」の虜であるから、ストーリーだけを見て ため息をつくなんてことにはならないのだ。

さて、そういうことで「ぐるぐる巡る想念」も終盤に差し掛かって来たわけだが、私は、本作の主人公が少年で、母を求めていて、婆さん達は惨めだが 若かりし姿は凛々しい、というような「若さ」を中心とした構成に少しだけガッカリ感を抱いた。いつも少年少女のために映画はあるのだ、という駿氏の いつかのメッセージは当然理解している。しかし、私は本作の駿氏に、その先の老いた先に何があるのかということを描くことを期待していた。

誰もかれも出逢う大人達が皆一様に、若いことはいいことで、かけがえのないもので、一方私達は...と自虐する様に時々、悲しくなることがある。 それが、よくある若者と取りやすいコミュニケーションの一つだということを理解していても、誰か逆に老いることの良さを主張してくれないかと 思う。しかし、何となくそれが真実なのだろうなとも感じる。なぜなら、死へ向かうのに逆行するように幸福が増していくほど悲しいこともないからだ。 そして、それならばやはり私は不老不死を希望せざるを得ない。それが、私の生き方だ。