饗宴とはその名の通り宴会を指し、本作は宴会の肴である出席者による哲学語りを描いた作品である。そして、本作の宴会の主題は「エロス」 すなわち性欲である。
さて、エロスとはそもそもギリシャ神話に登場する神の名である。普段我々がエロだとかエッチだとか俗に使っている言葉が、 実は本当の意味で神聖の言葉であったことには驚きを感じ得ないのと同時に、その神秘感にはなぜか納得してしまう部分がある。 それは置いておくとして、この神エロスは美を求める神として知られている(1)(2)。更に、エロスは父である知恵の神ポロス(3)の影響を 受けていることもあり、最も美しいもののうちの一つ=知恵を求める神でもある。また、美しいものを欲する事から転じて愛する神でもあるとして 話は進んでいく(4)。
さて、ここから更にエロスの定義が展開されていくのだが、エロス=「愛する」という時、これはいわゆる我々が想像する人への愛にとどまらない。 曰く、「愛という名は、愛全般をあらわす名(5)」であり、「一般的に〔......〕良いものや幸福を求める欲求はすべて〔......〕愛(6)」と言える のである。だとすれば、エロスとは「良いものを求める」事だとも言える。ここまでの流れとしてエロさが求めているのは美しさ→知恵→愛すること→ 良いものである。
ここから最終的に、我々はこれらの欲している物達をいつも「永遠」に「所有」したがっているのであるから(7)、その対象を「自分」に向けた時、 つまり自身の永遠な存在を確保する手段として、我々は子を欲するのであるとしてエロスの展開は一旦の終点を迎えるの(8)。
これについて、所詮私は私でしかなく、子は私とは別のものでしかない、というのはしごく簡単な疑問である。しかし、この疑問を解決するのは実に 簡単で、我々がそもそも我々自身と思っている物ですら、子供から老年までに構成要素から外見まですっかり変わってしまっているのであり、 それをして同一であるとみなしているのである。また、これは心の状態(欲求、快楽、苦痛)にも同じことが言える。そして、 我々は(動物も含めて)上記と同様に、神のように永遠に同一性を保つというやり方ではなく、老いて消え去りながら、自分にに似た別の新しいものを 残していくというやり方で永遠の自身を確立させるているのである(9)。
これについては、ヒュームが極めて似通ったことを述べている。 曰く、我々は得てして想像が、つまり観念から観念への移行が滑らかに容易く行われる時、それらを混同してしまいがちである。そして、 やがてその錯覚を、つまり変化し続ける対象が同一なものであるということを確定させるために、様々な知覚・印象の持続的存在としての魂とか 自己という物を作り上げるのである。 更に、我々は太陽などの一般的にも不変である思われるような物よりも、より変化しやすい物に対して整合性を持たせる場合には、 対象間に共通の目的意識を見出すことがある。ここで、人性論ではテセウスの船が例に挙げられているが、(10)人間の身体は正にこの論理に当てはめることで 同一視することができるのである。
さて、ヒュームがプラトンから強い影響を受けていることが明らかになったところで、饗宴に戻ろう。まず、ここで気を引くのは、同一性云々ではなく、 子を残す意味について言及されているという点である。我々はこのことについて普段あまり深く考えることはなく、また現代では受け入れられ難い テーマであることは確かである。しかし、だからこそ価値があり、気を引く言説であると言える。
さて、「イデア」はエロスの知を求める性質が究極的に辿り着いた物であるという次回作に繋がるような言説が繰り広げられて、 饗宴は幕を閉じるのであるが、本作はやはり紀元前に描かれたということもあって、先ほどの「子を産む意味」にとどまらない、様々に 興味深い言説が繰り広げられている。
パイドロスの話について言えば、求愛する者(徳を求める者)にあっては、少年の男性に対する求愛であれば、どんな嘆願や奴隷的行為、媚びへつらいも 許されるのであるが(11)、その一方でそれ以外の、例えば金銭とか権力とかが背景にあるのであれば、例え騙されて金銭が受け取れなかったとしても、 もっと言えば脅されて言いなりになっているのであっても、いわゆる身を委ねる行為は非難されるべきであるというのである(12)。少年愛はそれはそれとして、 このいわゆる被害者?にも徹底的な厳しい態度と、その中にあって異質な恋愛絶対制みたいなものは、その本質が「徳」とはわかっていても実に 浮世離れしているというか、現代にはおよそ売れ入れ難い価値観であると言える。
本作では、饗宴の出席者が一通りエロスについて語り合った折に、アルキピアデスなる若者(政治家)が現れ、他の出席者とは一線を画す非哲学的な ソクラテスとの恋の駆け引きについて捲し立てるのであるが(当然、彼も男である、というかマジで少年愛、同性愛しかこの話には出てこない)、 なんと一通り本作を読み終えた後の訳者(中澤務)の解説にて、彼がその後アテネを裏切った事などもあり、彼を念頭に置いた若者らをたぶらかしたという 罪が、ソクラテスの処刑理由の一つであると明かされるのである(13)。この驚きの事実を知ると、どう考えても、アルキピアデスの一人KY的な、 はっきり言ってウザいキャラクターの背景には本作の執筆者であるプラトンの彼への個人的な悪感情が全く影響していないとはとても言えないと 思わされるのである。
(1)プラトン(2013)「饗宴」(中澤務訳)光文社p103
(2)同書p121
(3)同書p126
(4)同書p131
(5)同書p132
(6)同書p134
(7)同書p135
(8)同書p138
(9)同書p141
(10)ヒューム(2010)「人性論」(土岐邦夫・小西嘉四郎訳)中央公論新社p113
(11)プラトン、前掲書p57
(12)同書p63
(13)同書p204