タケル・イダイヤの冒険

哲学

経験論・理性批判

・人性論:ヒューム

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「思うに、私という人間は、これまでいく度も浅瀬に乗り上げたり、狭い入江を通るのに危うく難破を免れたりしながら、それでもまだ、水もりする、雨風に 打たれた同じ船で向こう見ずに海へ乗り出そうとし、さらにはこんな悪条件のもとで地球の一周を考えるほどに野望を燃やしている人間、 そんな人間のようである。⑴」 これはヒュームの自己解釈である。人性論を終盤まで読んでこの一文に辿り着くと、これに心から同意できるだろう。何故なら、彼ほど愚直に、 良く言えば素直に、悪く言えばまどろっこしく何かについて(「印象・観念」「経験」という武器を使って人間の本性を)解き明かそうと足掻き続けた 人間は他にいないからである。

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全てを語る前にもう一言、ヒュームが人間の本性に向き合った理由についても引用しよう。 「重要な問題で、人間の学のうちにその解決が含まれていないようなものは一つとしてなく、我々がこの学問をまだよく知っていないのに確実に解決 されうるようなものはない。だから、われわれは人間性の原理を明らかにしようと試みることで、実際は諸学問の完全な体系を目ざしているのである。 ⑵」 ここには、彼の原因がある。何の原因かと言えば、ヒュームがのちに語り継がれる大いなる経験論を打ち立てた結果の原因である。さあ、経験論の始まりだ。

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彼が解き明かしたいくつかの人間の性のうち、最もセンセーショナルでインパクトがあるのは、「想像」かもしれない。想像について、これを解き明かそう という時、ごく普通に頭に思い浮かぶのは、果たして人間の想像などというものを言語化、理論化することが可能であるのかということである。何故なら、 想像の想像たる所以は、制限なく無限大であるはずだからである。その問いに答える前に、私が今し方無限大の想像と書いた時、そこから想像した情景 について語ろうと思う。それというのは、ドラえもんの主題歌「ハグしちゃお」のワンシーンである。どういうシーンかと言うと、雲の上にのび太達5人衆 がいる。のび太はいつもの如く、雲の上に寝転んでいる。そこにはペガサスがいて、女神に扮して⁉ハーブを弾く静香ちゃんがいる。まさに空想を具現化した ような情景である。だが、より正確に言えば、私は「無限大の想像」から直結して「ハグしちゃお」を想像したわけではない。実は、「無限大の想像」→ 「雲の上の城、女神、ペガサス」→「ハグしちゃお」と段階を踏んで想像したのである。これは、決して事前に考えられた何かという訳ではない。私は、 ヒュームの想像論について語る導入に「無限大の想像」と書いた瞬間、上記の思考の流れに突入し、それをただ正直に書いただけなのである。

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ということで、想像の理論化が可能であるかという最初の問いに答えると、答えはYESだ。そしてもっと言えば、先述の一連の思考の流れの中に、 想像の理論化、つまりヒュームの想像論、ひいては経験論の重要な多くの要素が散りばめられている。これは、私の構成の余念のなさを証明している訳では ない。如何にヒュームの想像論が本質をついているか、或いはヒュームの血に滲むような努力の結果、私がヒュームの経験論を信念として迎え入れ、 上記の「無限大の想像」から「ハグしちゃお」への流れの中に、本質の多くが潜んでいるという観念へと思考の歩みを進めるに至ったかということを 表しているのである。つまりこれは、ヒュームの偉業の賜物である。

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ということで、想像の論理を語っていこう。まず、これは想像は単なる分離した何かと何かの結合ではないという論理である。 そもそも想像とは観念を分離し、あるいはつなぎ合わせて行うものである⑶。ここでいう観念とは、思考そのものと思ってもらえれば良い⑷。一方、観念 つまり思考に先立つものとして印象がある。ともかく、この想像、つまり観念と観念を結びつける原理には「類似性」、「近接性」、「原因と結果」の3つが 存在しているのである。 では、先ほどの「無限大の想像」から「ハグしちゃおへの想像(観念の移行)に上記原理を当てはめてみるとしよう。ところで、「無限大の想像」から 「雲の上の城、女神、ペガサス」への移行について、一般的にどう思うだろうか。恐らく、突拍子がないとは思わないだろう。その一方で、「無限大の想像」 と聞いて、家から学校への通学路とか、満員電車とか、そういう類の観念を思い浮かべる人は恐らく皆無だろう。ここでわかるのは、我々の間に、 「無限大の想像」から「雲の上の城、女神、ペガサス」へと想像してもおかしくないという程度の共通認識が形成されているということである。そして、 共通認識の形成には、過去の様々な「経験」が関係している。例えば、ペガサスで言えば、遠い昔に人々が何らかの「原因」の「結果」としてペガサスを 神話として想像し、語り継いだ。やがてそれが時代を超え、国を超え、現代に辿り着き、人々は親から物語を聞き、或いは童話として読み、 「無限大の想像」=「空想」と言えばそこにはペガサスがあるというような経験をしてきたのである。つまり、「無限大の想像」から「ペガサスら」への 観念の移行は「原因と結果」によって起きたと言える。 「ペガサスら」から「ハグしちゃお」への移行に関しても、そこには「記憶」⑺という「経験」が介在している。或いは、後者が前者のパロディで あることから「類似性」も見て取ることができる。

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さて、ここまでの話で、想像の3原理のうち最も抽象的で、最も重要なのが何かお分かりだろう。 「原因と結果」これは奥深く難解で、そして強く人間性と結びついた原理である。というのも、「原因と結果」が結びつく時、両者の間には、近接している、 原因が結果に先行している、そして「必然的結合」という3つの条件、関係が存在している⑸。 そして、この「必然的結合」こそが原因と結果のコアと言える。何故なら、先ほど「ペガサスら」から「ハグしちゃお」へと容易に想像が行き着いたのは、 決して私がテレビで一度だけ「ハグしちゃお」を見たという原因では足りなかったからである。つまり、単体の「ハグしちゃお」という映像を見たという 原因自体では、観念の結びつきは起こり得ないのである。 「原因と結果の観念は、しかじかの特定の対象が過去のすべての実例で、きまって互いに伴っていたことを知らせる経験に起因する⑹」 そう、一度ではなく、幾度もの経験が必要なのである。 「ハグしちゃお」を毎週金曜日夜7時(確か)から観続けることによって、ペガサスと、女神と、雲の城にいつもドラえもんと寝そべるのび太達が いたというこの経験が、「必然的結合」を作り、「原因と結果」の原理を発動させたのである。この意味で、「原因と結果」は強く人間性と結びついている。 そして、 「原因→結果の繰り返し→経験→必然的結合→原因と結果の原理→想像」これがヒュームの想像論である。

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さて、次にヒュームが目につけたのは「記憶」である。「「想像」と来て、次に記憶。ずいぶん別個の原理を持ち出してきたな」と思ったかもしれない。 しかし、「記憶」は多くの部分で「想像」と関連しているどころか似通っている。今までの想像論の中に、実は「記憶」が一度だけ登場している。それは、 注7の部分である。引用「「ペガサスら」から「ハグしちゃお」への移行に関しても、そこには「記憶」⑺という「経験」が介在している。」 そう、ここでは記憶と経験が同義として扱われている。しかし、厳密には少し違う。例え、「ハグしちゃお」を幾度も見たという経験があったとしても、 それを記憶していなかったとしたら、「ペガサスら」から「ハグしちゃお」への観念の移行は起こり得ないであろう。いや、正しくは、極めて起こりにくいと 言える。というのは、もし、今の子供世代、つまり「星野源ドラえもん」世代に、上記の観念の移行を抱かせることも不可能ではないからである。 その方法は、伝聞である。まあ、厳密にはAmazonプライム的な映像媒体があるのだが、それでは実際に観たのと同じことであるから、それ以外の方法として、 実際に観た世代から伝聞するという方法がある。何度も何度も伝聞を重ね、恐らくテレビで1年「ハグしちゃお」を観るのより途方もない労苦を経て、 ようやく「ペガサスら」から「ハグしちゃお」への観念が完成するだろう。そこには、記憶がないのに、経験がある。そして、この時、二つの観念は 記憶ではなく、想像によって結びついていると言える。では、記憶とは何か。「記憶」とは「想像」が事実としてあったという「信念」に他ならないので ある⑻。「記憶...に伴う信念...は...これのみが想像から記憶...を区別するものであるのは確かである。⑼」

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話題は連続する。想像、そして記憶と来て、続いては、「信念」の意味である。これを語る前に、信念の効果についてヒュームは 「信念はある対象を思い抱く仕方を変えるほかはなにもしないのだから、観念に対して信念は勢いと活気とを付け加えて与えうるだけである。⑽」と 述べている。また、信念の生じる原因として、「経験が信念及び原因と結果の判断を作り出しうる(11)」と述べている。これは、 一般的に理解しやすいだろう。繰り返しの経験が必然的結合を生み出すのであれば、それと同時に信念を生み出すことがあっても何ら不思議ではない。

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さて、では経験によって生み出され、観念を勢いつかせる信念なるものは一体どういう意味をもたらすのか。これについて、 さしあたり観念を勢いづかせるという言葉の意味を知りたい。観念、つまり勢いづいた思考は、そこにありありと生身のような情景を、 感覚を呼び起こす。これはまさに印象に近付くということである。つまり、「信念の効果は、単なる観念を印象と等しいものにまで高め、 情念に対する影響力の点で印象と似通ったものを観念に与えることにあるわけである(12)」。

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観念を印象に近づける意味、これにはいわゆる虫の知らせ的なものを思い浮かべるのが良い。例えば、危険な街という印象を我々はいつ感じるのか。 当然、バットを持った大男やシンナー吸いの壊れ人を見れば、その印象から気づけるだろう。だが、それでは遅すぎやしないか。もっと手前、例えば、 そこの駅に近づいていくにつれて、電車内の人々が減っていく、そこから過去の経験を元にした、人の少ない所は危険である!という観念+信念から、 危険を察知するという印象にたどり着くことには大きなメリットがあるだろう。信念の役割とは、印象と観念の繋ぎ役であり、サポーターなのである。

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ラカン的思考
を読んだ身からすれば、旧知の論点である「人格の同一性」についてもヒュームは印象・観念と想像と経験を織り交ぜて語っている。 これについて彼は、もし自己の完全な同一性なるものがあるのだとしたら、その観念はいかなる印象に起因するというのかと問う(20)。彼にしてみれば、 人格はいくつかの印象(快、苦、悲しみ喜び)に関わりを持っているが、そのどれもが恒常的で普遍的でなく、よってこれらに対して自己の観念が起因 することはあり得ないというのである(20)。「人間とは、...たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束...にほかならぬということである。(21)」 しかし、ここでヒュームの観念は終わらない。上記のような現実にも関わらず、一体我々に同一性などという幻想を抱かせる原因はどこにあるのか。

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これには、我々の抱く2つの観念が影響している。一つは、整合性、つまり、対象がそこに永続的に存在していないと矛盾が生じる場合に、そこにあると 仮定させる、整合性を生じさせるものである(22)。そして、これは例えば、太陽であるとか消えてはまた現れる物の中断を覆い隠し、持続的な存在を 持つものであると想定させる力を持つ。(22)これを同一性の観念とも言う。そしてもう一つは、対をなす多様性の観念であり、これは密接な関係によって 結合されているいくつかの異なった対象に対する観念である。そして、重要なのは想像が観念から観念へと移行を滑らかに容易く行う時、同一性の観念と 多様性の観念がしばしば混同されがちであるという事実である。

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これがもたらす帰結は、我々は変化し続けるその対象を同一なものであると名実ともに確定させるために、つまり整合性を持たせるために、様々な知覚・印象 の持続的存在としての魂とか自己という物を作り上げるということである。 更に言えることは、我々はその対象が太陽等の一般的に不変と思われるような物よりも、より変化しやすい物に対して整合性を持たせる場合には、 対象間に共通の目的意識を見出すことがあるということである。わかりやすい例えはテセウスの船である。我々は、船の部品がどんなに変わろうとも、 何故かそれを同じ船であると認識し続けることができる(23)。

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ここまででわかる通り、我々が同一性を語る時、それは複数の知覚の観念を想像と信念によって結びつけているに過ぎない。 これらの事実を想像の原理に当てはめると、一つは類似性であり、保持している記憶の中の知覚と類似する知覚を覚えることで、それらが同一であるとの 想像を呼び起こす。更に、これもまた記憶によって心を構成する知覚の因果性を意識し、多様性の観念と同一性の観念が混同されていくのである。(24)

15誇りと卑下
ヒューム経験論の惜しげもない披露が続いたが、ここでいよいよ、ヒュームは本丸である感情へとメスを入れる。手始めは、誇りと卑下という正反対の感情 である。これらは正反対が故に、鏡のような特性を持つ。一つは、対象が「自己」であるということである。我々は自分自身についての観念が優ったもので あるかそうでないかに応じて、誇り或いは卑下を感じる。(25)もう一つは、原因が多様な性質(美しさ、勇気、正義、嫌悪、恐怖)と主体(ペット、家、容姿、 国)の両立により生じるということである。そしてもっと言えば、自己と対象の間には関係が、観念の連合足り得る関係が必要である。更に観念の連合と 並行して、対象への快或いは不快の印象と、そこから類似する誇り或いは卑下への連合、この2重の強固な連合こそが誇りと卑下の発生条件であり結果と 言える。(26)印象が、観念が互いに結びつくというのは、ヒュームの想像論の初歩の論理であるから、やはり人性論は印象、観念と経験が主題なのである。

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16愛と憎しみ
誇り、卑下と対をなすのは愛、そして憎しみである。これら二つは、対象が「自己」ではなく「思考する存在」(27)に向かい、 そこに向かって生じる2重の強固な連合の元に成り立つ。また、もう一つ言えるのは、愛及び憎しみは誇り及び卑下を呼びやすいが、 その逆の誇り及び卑下は愛及び憎しみに変わりやすいとは言えないという一方通行の関係があるということである。(28)

17自由
さて、人性論も佳境へ入る。続いては、自由が主題である。最初に結論として、ヒュームは自由を否定する。まあ、想像の理論を説くような男 であるからいわゆる自由意志を否定することに意外性はない。彼は、我々は常に他人の行為と自然の証拠(物的法則)を同一視して想定・確信しているのだと 言う。確かに、それはそうかもしれない。車が信号を守るのも、駅入り口のシャッターが開くのも、電車が時刻通りに動くのもいずれも物的法則 (エンジンが通常に動くとか)と人々の自由意思(電車を発信させるのは人間なのだから)の並立によって成り立っている。しかし、我々はいつもそれらの 相違を感じずに、日常が物的法則の如く続くことをを確信している(29)。 というのも、既に述べたように、全ての物的法則(信念)は、想像が経験を積むことで生じる。一方で、人々の自由意志についても、 観念と経験を元に作られている。だとすれば、両者を分けるものなどないのである。ヒュームはその上で、もし本当に自由などというものが 存在するのなら、どうして我々は正義や道徳的公正と適合するように罰を科することができるのか、と問う。行為とその心に繋がりがないのなら、 常に無実であり、何ら咎められる理はないという訳である(30)。

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ここまでいくつかの人性に焦点を当てて来たが、ヒューム人性論の全編に通じているのは情念(印象・観念)と経験の重要性である。 その一方、彼は情念と対立すると言われている理性を否定するのではなく、あくまで情念に劣る存在であるという。その主張は以下に端的に表されている。 「衝動が理性から起こるというのではなく、衝動が理性によってただ導かれるだけのことである」(31)。ここに言う衝動とは、情念であり、すなわち印象 である。人は、何らかの印象を元に観念を巡らせ、或いは何らかの観念に印象し、また、観念を巡らせる。つまり、行き着く先はいつも印象=情念である。 そして観念は経験を元に想像から信念となり、やがて人々の意志となる。理性とはそうして出来上がった信念を別に称したものにすぎず(6)、 そもそも情念と経験が存在しなければ理性は存在できないのである。こういう理由で、情念(印象・観念)と経験は重要であると言える。

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ヒューム人性論について、要点をかいつまんで説明しようとしたつもりだったが、こんなに長くなってしまった。ヒューム人性論の奥の 深さが窺える。これは哲学全般に言えることかもしれないが、想像が思っていたようにデタラメではなく、経験を踏まえた観念と観念の結合であったこと、 或いは変化し続ける知覚、印象の束を同一視してしまう錯覚に生合成を持たせるために同一性の論理が定着化したのかもしれないこと、こういったことを 聞いて何かすぐに人生が劇的に変わるとかそんなことはない。また、ヒューム人性論という人間性の原理、つまり根本の研究は、より顕著に我々への影響の 無さが現れるのだろう。しかし、全ての始まりは小さな物質同士の衝突から始まるなどという抽象的名言にとどまらず、現に哲学においてヒューム人性論 を元にした議論が現在に連綿と続いている。そうした時に、ヒューム人性論を知っているか否かは、これが肯定・否定されているに関わらず、 思考に顕著な違いをもたらすだろう。何故なら全ての想像は経験から始まるのであるから。

参考文献:ヒューム人性論(土岐邦夫、小西嘉四郎訳)以下のページ参照は(7)を除いて本書による。
⑴118 ⑵9 ⑶19 ⑷12 ⑸43 ⑹56 ⑺段落❻ ⑻51 ⑼53 ⑽61 (11)67 (12)77 (20)108 (21)110 (22)100 (23)113 (24)116 (25)139 (26)148 (27)155 (28)164 (29)170 (30)175 (31)178