夏に彼女と車で海を見に行く。 この14字は人生の究極である。恐らく、村上春樹 もそう思っているに違いない。だから彼は本作を書いた。 そしてそんな彼が作家として日本を代表している状況を鑑みるに、多くの人々も私と村上春樹と同じ思いを抱いているに違いない。 ということで、究極の季節、夏について話そう。
「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」(1)
何故、夏が至高なのかと言えば、それは
では、何故我々は夏に何かが起きることを期待するのだろうか。 暑さで服装が軽くなり、露出が増加することで開放感を感じさせているのかもしれない。或いは学生時代の夏休みという特別な期間が影響している 可能性もある。とにかく、この期間の始まりにいつも決まって我々は何かを期待し、そして結果の如何にかかわらず終わりを憂いている。
夏、命、線香花火等終わりがあるから美しいというのは決まり文句である。一方、不老不死を至上命題に掲げる私は、 この言説にいつも抗っている。そんな私が提唱するのは、「夏」と呼ばれている期間に限定する期間を伸ばそうというものである。 大体、世間では酷暑だ残暑だと夏を敵視する声ばかりが大きいが、夏が終わるということは1年の終わり、季節の終り「冬」へ 近づいているということなのだ。何事も終りを迎えるのは寂しいのだから、夏を敵視するべきではないのだ。 なお、参考データとして、昨年の最高気温25度を超過した日数は140日を超えている。これは名実ともに南国的な永遠の夏が到来している のかもしれない。何かが巻き起こる可能性は長ければ長いほど良い。
「夏」は人生にとって必要不可欠とまでは言えないが、「女」は人生にとって十分条件である。
「僕が目覚めたのは朝の6時前だった。〔…..〕開け放した窓からはほんのわずかに海が見える。〔…..〕暑い一日になりそうだった。
〔…..〕僕は裸のままベッドの背にもたれ、煙草に火を点けてから隣に寝ている女を眺めた。」(2)
夏、そして海。朝の目覚めとして十分魅力的であることは言うまでも無い。しかし、ここに「女」がいることで一層朝が魅力的に感じられる。
村上春樹の物語に触れると、女=恋愛(SEX)がいかに人生に彩りをもたらすかということに気づかされる。
彩のもたらし方はいくつかあるが、一つ目は恋愛それ自体の「起こっている」感だ。
村上は「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。(3)」と述べているが、
本作にはセックス・シーンもあるし、過去談ではあるが人の死も描かれている。
むしろ、セックスにしろ死にしろ、本作においては代表的な「起きている」事としてなくてはならないポイントである。
いつも我々の身近にあるセックスと死はいずれも、我々に物理的、精神的に大きな影響をもたらす。だとしたら、
これらを小説に描くことには意味があると思える。つまり、そういう意味で彩りをもたらすと言える。
もう一つ付け加えると、恋愛の良いところは他の余計なことを頭から消し飛ばしてくれる点にある。恋愛にかまけていさえすれば、
我々は多くの不安に着いて思い悩まずに済むのである。
また、女について、こう言うこともできる。
「眠れぬ夜に、僕は時々彼女のことを考える。それだけだ。」(4)
眠れない夜に私が考えることといえば、幼少期から私の頭の中だけにあるオリジナルバトル作品のストーリーを進めるかおさらいするか、
或いは過去の女のことか知らない女とのエロいことのどれかである。過去の男や家族ではなく、何故過去の「女」だけがいつまでも私に何かを
考えさせるのだろうか。そして彼女たちを思い出浮かべる時、大抵は夏なのである。
車についても一言語っておこう。夏や女に比べるとそれほどの意味はないかもしれないが。
「海岸通りに車を停めてラジオを聴きながら海を眺めてた。いつもそうするんだ。」(5)
「気持ちの良い夕方だった。僕は海岸に沿って夕陽を見ながら走らせ、国道に入る手前で冷えたワインを二本と煙草のカートン・ボックスを買った。」(6)
東京に暮らしていると、車という物の偉大さを感じる。車には決まった時間もないし、友達と気兼ねなく話せるし、好きな場所で止まることができる。
つまり、公共交通機関のデメリットが車の再評価に繋がるのである。それに、これだけは言えるが、新宿の東南口や渋谷のハチ公前でスマホを
耳にうろうろと相手の服装を頭に思い浮かべて歩き回るのと、お気に入りの音楽を流しながら相手の家の前までサッと車で駆けつけるのとでは
物語の導入が大分異なる。まあ、隣の芝が青く見えていることには気づいているが、それもどうしようもないことなのである。
「時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しい事に、それは真実なのだ。」(7)
『秋が近づくと、いつも鼠の心は少しづつ落ち込んでいった。〔.....〕「多分取り残されるような気がするんだよ。その気持ちはわかるね。」
とジェイは言った。「そう?」「みんな何処かに行っちまうんだよ。学校へ帰ったり、職場に戻ったりさ。あんただってそうだろ?」』(8)
あるいはブルーピリオド単行本11巻90ページより、「自分が急に遅れてるみたいに感じるよな...」(9)
このパートは前述のパートから数日を置いて書いている。何故なら、上記のセリフについて改めて考えのは気が進まなかったからだ。
その間には笑気麻酔を吸う機会があった。意識が朦朧とするという初めての経験に多少パニックに陥りながら、それでもこれで終わるなら終わりで
いいじゃないかと思ってしまった。
『「〔.....〕つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。」
「ひとつ質問していいかい?」「喜んで。」「君は何を学んだ?」大気が微かに揺れ、風が笑った。』(10)
死とは何か。死とは、終わりである。いや、生き残った者たちにとって誰かの死は決して終わりだけを意味しない。だが、
何を言ったとて死んだ者にとって死以降に在る物は何一つないのである。
不老不死にしがみつき、未来を不安がり、他人の目ばかり気にしている私がそう思った。
私の観念の変化に、笑気麻酔を吸った事、つまり健康が無関係とは言えないだろう。だから、本作の鼠やブルーピリオドの八虎、
そして以前の私のような若者たちの考えの方が正常だと思う。私は別に自暴自棄になったというわけでもない。
ただ、
不確実な未来に怯えて過ごすよりも、今をどう楽しむかに全力になった方が楽しいと思えたのである。
実際、このように思えたからこのパートも書くことができたし、私は次なる小説を求めて旅立つことができる。
付録
吹っ切れパートを書く以前に書いていた文章。当時の心境がよく現れている。
「そもそも人生にとって必要なものとは何だろう
まずは健康。健康はその他の多くの人生に必要な要素と同様に、在るときには何の意味ももたらさないがそれが失われた時には、
人生に多くの害をもたらす。
そして、酒。酒はもしかしたらなくてもいいかもしれないが、やはり私のように弱い人間には必要だ。酒が我々にもたらすのは忘却だったり、
キッカケだったり勇気だったりもする。
そのほか、良き相談相手、音楽、適度な責任、適度な予定、今日はどれを読もうかと選択の余地のある程度の本に、
食後のアイスクリームなど人生に必要な物を挙げ出したらキリがないが、」
村上春樹(1979)「風の歌を聴け」講談社(1)p13
(2)同書p32
(3)同書p26
(4)同書p75
(5)同書p35
(6)同書p86
(7)同書p100
(8)同書p110
(9)山口つばさ(2021)「ブルーピリオド11」講談社p90
(10)村上春樹、前掲書p127