本書はラカンの入門書ではない。ラカンの思考をフロイト、アルチュセール、デリダ、コジェーヴ、パスカル、ベンヤミン、アーレントらのそれと 連鎖させているのである。そういう意味では、ラカンを含む上記の人々をある程度理解して読むと、より楽しめるのは自明のことであろう。しかし、 私のようなラカン入門者からしても決してちんぷんかんぷんというわけでも無かった。
さて、先に述べた本書の試みでもあるラカンとその他の哲学者たちを連鎖させること、これは本書のキーワードの一つでもある「同一化」を指す。
何故なら、本書に言う「同一化」とは、対象との遜色ない同一化ではなく、部分的で、対象のただ一つの特徴においてのみのそれだからである。⑴
これは、「ぐるぐる巡る想念【オタク道と哲学】」で述べた、オタク道と哲学の所作における「関連付け」とも意味を同じくする。
むしろ、これが全てだと言っても良い。我々は常に、同一化を欲しているのだ。
これについて、フロイトが「同一なものの再発見は快楽の源泉」であると述べている。⑵
確かに、我々は同一なものを見つけた時、そこに快楽を感じる。例を挙げれば、同郷者、異なる作品の声優の起用、正夢、同一の意思により種々の出来事が
起きているのだという妄想=陰謀論、そして、「関連付け」である。何故、我々はここまで同一化に惹かれるのか。
さて、往々にして哲学者にはセットとなる言葉、フレーズが存在している。ニーチェ:神は死んだ、ソクラテス:無知の知、アーレント:凡庸な悪、
パスカル:考える葦、そしてデカルト:我思う、故に我あり
ラカンはと言うと、鏡像段階理論、それからフロイトに還れ、この2言は倫理を学んだものなら聞いたことぐらいあるはずだ。
本書によれば、鏡像段階理論が示すものはすなわち、「我思う、故に我なし」である。⑶
この段階でラカンの立ち位置、出所がなんとなく掴めるだろう。鏡像段階理論とは、幼児期の子供は、それまで自らの身体を統一体だとは思っておらず、
鏡を見て初めてそれを認識するというものである。⑷そして、鏡に映った自らという、自らとは別の物を通して、自らの身体を認識した時点で、
オリジナルな自らは消滅してしまうというのがこの理論である。これは、自らは鏡に映った自らの像に自らを「同一化」することで自らを認識しているとも
言える。
そして、重要なのは鏡像段階理論は一つの例えでしかなく、人が何かを思考した時、その何か、を考える材料は全て前提の言語、知識、他人の考えの元に
成り立っているのであるから、思考するということは、「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通してでしか、自らは存在し得ないというのが、
ラカンの主張である。⑷
集団とか、社会という物もこれに沿って考えることができる。社会のルールを身につけるとは、その言語世界に同一化するということを指す。
また、「言語世界」は言葉や思考に留まらず、頭を下げる、声を抑える、列に並ぶなどの動作も重要な役割を果たす。⑸
やがて、表面的なルールにとどまらず、自身の考えそのものも社会に同一化するのである。主体とは、そうやって成り立っていくのである。
この真理を知ると、集団の危険性、そして集団における異質性の重要性に行き着く。人間の特性そのものが何かと同一化することなのであるからして、
こういう結論に至るのである。
では、ラカンのもう一つの名言「フロイトに還れ」、その真意は何か。真意を探る時、キーワードとして「事後性」が浮上する。事後性は、哲学的考察に
留まらず、実社会の事柄の前提となる大変重要なテーマである。まず、先の鏡像段階理論と関係するのが「身体における部分の優位」である。
これは簡単にいうと、形であるシニフィアンが先に来て、内容・意味であるシニフィエが事後的に効果として作られることを指す。⑺
シニフィアンとシニフィエという奇怪な言葉は置いておくとして、これはどうだろう。形から入るなんてことに、否定的な意思が付随していることは
少なくないと思うが、実のところ、人は教会に行き、神に祈るというシニフィアンを通じて信仰心(シニフィエ)を抱くのである。⑸
我々がストレスを解消したい時、頭で考えてどうにかなるだろうか。多くの場合、ストレス解消に作用するのは筋トレや包容、旅行という身体の動きを
伴うものである。
眠れない日々が続く時、羊を数えて解決したという幸せ者がどれほどいるだろうか。適当に解消法を検索すると、
出てくるのは快適な空間の確保にツボ押し、良い姿勢である。形から入ることが自明なのである。つまり、意味は事後的に作られる。
ここで、「フロイトへ還れ」の真意が明らかとなる。ラカンはフロイトの当時の思想そのものを受容せよと言っているわけではない。 あえて現代的に言おう、フロイトをアップデートせよと言っているのである。アップデート?それでは別物になってしまうのではないか、 いや、別物にすることに意味があるのだ。過去の事物を事後的に解釈することで、初めて現在に通じるものになる。思想が特別ではない、 この世の全ては事後的に解釈され、アップデートされることで現在に存在している。「芸術が語り継がれていくため、つまり時代を超えて説得力を 持つためには作品そのものの存在並びに意義をいかに希薄化させて意味づけ直すことができるかにかかっているのだ」⑹
とある業界では「前例踏襲」という基本原理が強い影響力を伴って存在している。なるほど、響きが良く、法治主義と親和性もある。 だが、法律とは、往々にして最後に事後となる性質を持つ。それは、法律の持つ重みが故のものであって真っ向否定するつもりはない。 重要なのはその原則を認識し、法律の周辺、そして世界の動きを肌で感じ取ることである。或いは、法律の原則に侵され、思考することを放棄し、 世界が変わらないことを自明とし、事後性という基本原理を存在しないものとして扱うことがあってはならない。最も法律に近しい者こそ、 事後性と法治主義の本質を自覚すべきなのである。
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