タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

TAR(映画)の感想(反省)

TARは随分語りどころの多い作品だ。いい作品の指標はたくさんあるだろうが、間違いなく上記の特徴を持つ作品はその要件を満たすだろう。そこで、まずはTARの語りどころを一覧化してみる。

◉テーマ
・権力がもたらすもの
・一人の女の転落劇(悲劇)
・音過敏に悩む人間
・ホラー
・正解はない、観客の解釈次第
◉要素
・クリスタとは何者?(クリスタとの関係)
・リディアはハラハラをしていたのか?
・現実か幻覚か
・日本要素

まずもって、テーマと要素の区別は難しいものではあるが、作品全体として何を伝えたいのか、というのが前者である。テーマは5つを羅列したが、一番下のそれは他を包含するものといえる。そして、「他」が複数ある時点で、正解のないことをほぼ証明していると言って良いだろう。しかし、偉そうなことを言っている私自身は、TARが正解のない、観客に解釈を委ねるという最近の名作にありがちな(だってこの文言は方々でよく聞く)要素を持った作品であるということに自ら気づくことができなかった。 だが、これは恐らく普通の「正解のない」作品であれば、そんなにおかしなことではない。 なぜなら、一人の人間が作品を見て、それに対して抱く解釈はそれで一つの解釈を構成しており、そこからこの作品は観客に解釈を委ねているのだという解釈には普通ならないからである。 多くの場合は、その状況から他者の解釈に触れて、そしてそれにある程度納得することで初めて我々に解釈が委ねられているのかもしれないと感じることができるのだ。 しかし、この映画は普通ではないので、上記には当てはまらない。

私と本映画を共に観たYNN氏は直後、久々に理解の難しい作品だったと述べていた(彼は私など足元にも及ばない映画通かつ私に並ぶ知性の持ち主であり、単なるバカとかそういう類の者では決してない)。 彼がこのような感覚を抱いたのは、 この映画が、多元的な解釈のできるように、言い換えると「これとこれ」と断言できないように、矛盾するシーンによって構成されているからである。 つまり、 矛盾を意識させることで、一本筋の通った解釈を困難にさせ、そうすることによって、これが多元的であり、「正解のない」、それがテーマになっていると観客に解釈させるのである。

さて、TARのテーマ解釈における正解のなさぶりを充分に語ったところで、本題?に入る。 すなわち、私の解釈の話である。 まず、ここで一つの事実を認めねばならない。それは、先述しているように、私自身は、この作品が正解のない作品であると感じることができなかったということである。そしてそれは、私がTARの解釈において矛盾を感じなかったということでもある。この理由はいくつかが考えられるが、恐らく最大の理由は、私が序盤20分ほとんど映画に集中できなかったという点にあるだろう。 私の醜態はともかく、序盤はリディアが偉大で、何だか難しいことを講演で語っているし、反抗的な生徒をやりこめているし、おいぼれ師匠とも上手く付き合っているやり手の女であることを強調しているな、という印象を抱いた。しかし、他に気になった点もいくつかあり、一つはリディアが自信をペトラの父である、という風に表現していたようにかなり男らしく描かれていること、そしてその一方でメトロノームが、冷蔵庫が、チャイムが奏でる微かな音に敏感に反応してしまうという音過敏に悩まされている、ということである。

そして、そんなリディアの日常が丁寧に描かれていた矢先にクリスタが自殺する。 私はその時点では無事?醜態を終えて物語に引き込まれていたのであるが、当然の如くクリスタとは?という疑問を抱いた。これが私の悲劇である。なぜなら、ここまで真剣に物語を視聴している者ならば、「未だ映画内に登場していない人物が自殺した。謎だ」という作者の意図通りの思考に至るのだろうが、私はそうはならなかったからである。「やっちまったよ、一体どいつがクリスタだったんだ」との思考に至った私は後悔に苛まれながら、とりあえずフランチェスカがクリスタではなかったことを確認(クリスタが死んで泣いていたので、そりゃあそう)し、その後のリディアのクリスタとのやりとりの削除指示等を観ながらもさっぱりそれらを理解することができなかった。つまり、このクリスタとのやりとりの削除指示から、観客はリディアがハラハラ(今更ながら、この言葉は様々なハラスメントを含む全体を指している)を行ったのだと認識する一方で、いや、実際のところ、本当に完全に一方的な関係であったのか、それとも二人の愛が拗れて結末を迎えたのだろうか等の葛藤へと至り、ここに上記要素の内上二つ分が成り立つのである。しかし、ここを混乱のまま迎えた私は、クリスタ、フランチェスカ、オルガというリディアのハラハラ対象の中からクリスタを排除して、というか、この映画全体から彼女の存在を排除しながら嗜むという離れ業をやってのけてしまった。しかし、そんな邪道(というか、奇道)を歩んだ私の解釈は、完全に見当違いというわけでもなかったのである。まあ、その中身は後々説明するとして、クリスタを除く物語にきちんと登場する二人とリディアの関係においても、やはりハラハラの実は描かれなかった。セバスチャンが吐き捨てたように、リディアが若い女である二人にそういう好意を抱いている様子は所々に描かれている。しかし、それが「セクハラ」と呼べるものであったのかどうか、 という議論の対象になるようなシーンすら描かれていなかったのである。

さて、自殺したクリスタの件で訴えられたリディアの身にはその後も様々な不幸が巻き起こり、見事に転落していく。具体的に言うと、序盤の男性生徒との口論の件をSNSで拡散され、自らを慕っていた若い女たちは離れていき、パートナーと娘を失い、ベルリンの音楽界からも追放され、といった感じだ。 無論、リディアが権力を使ってハラハラを常習していた悪魔ならば、当然の報いだとしか思わないのだろうが、先述したようにリディアに対してそういった印象を抱いていなかった私も特にリディアに対して同情する気にはならなかった。というのも、パートナーや仲間たちに重要なことを何も相談しないという選択をしたのはリディア自身であり、その結果度重なる不幸に精神を病むのも自明であったと思ったからである。私が、昨今批判されがちな自己責任論的な思想に至っているという問題は一旦隅においておくとして、リディアが誰にも相談しなかったのは、勿論元々そういう気があるのかもしれないことに加えて、相談できない、後ろめたいことがあったのかもしれないというところから、やはりハラハラをしている自覚があったのだという解釈もできよう。しかしそういう解釈から離れていた私は、リディアがクリスタを含む若い女子たちに好意があったことは自明なのであるから、当然、シャロンにはクリスタの件を相談することはできないのだろうと納得していた。

そして、物語はクライマックスへと向かう。 悲劇というのは終わり方が重要である。ベルリン音楽界の最高峰に登り詰めたリディアの転落劇の結末は、東洋のゲーム音楽コンサートの指揮者であった。何という屈辱であろうかと思い、私はエンドロールの間中ニヤニヤが止まらなかった。 つまり、ここまでの話をまとめると、私は本作を「一人の女の転落劇(悲劇)」と「音過敏に悩む人間」という二大テーマを掲げた作品であると解釈したのである。であるからこそ、視聴後に上記にまとめたような多元的な解釈を知り驚愕した。 ともかく、以上で私のTAR批評と反省文を締めさせていただく。