タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

正欲(映画)(監督:岸善幸)の感想

「桐島、部活やめるってよ」「何者」と浅井リョウ作品を2冊読んだ上で本作を観ると、 これが浅井リョウ作品の映画化なのだなと納得させられる構成だった。3作には、多数の登場人物の場面が入れ替わりながら物語が進行するという共通点 があるのだが(と言っても本作については原作は読んでいないので確証はない)、本作では暗闇と静寂の間を差し込むという手法を使って、 ページをめくり章が変わる読書感覚を表現することに成功している。

しかし、冒頭から勇気を出して敢えて言うならば私は場面転換の度に小説の際には感じない一瞬の違和感を感じてしまった。 一体それが何故なのかはわからないが、単に新鮮故に感じた違和感であった可能性を示唆しつつこの話はここでやめにする。

さて、ほんの少しの非難から入ってしまったが安心して欲しい。これ以降は褒め尽くしである。
まず言及すべきは音楽・音響だ。冒頭ガッキーがずぶぬれ睡眠を行うシーンを皮切りに本作では幾度も「ぶくぶくぶくぶく」と水中の音響が流れる。 「普通」水中の音響には水フェチの彼等とまでは行かないまでも心を落ち着かせられる等の理由から肯定的な感覚を抱いている人が多いはずなので、 これを全身で感じることのできる映画館での鑑賞をぜひお勧めしたい。

また、水に関して言えば佐々木の実家のシーンでは、絶えず川のせせらぎが聞こえてくる。 彼の水へのフェティシズムの勃興の背景にはもしかすると川の影響があったのかなかったのか、そんな話もある。
ぶくぶくと並んで音響効果が素晴らしいのが、大也演じる佐藤寛太氏の圧倒的な踊りっぷりと音楽・音響が相まって 大迫力のダンスのシーンである。

音響も素晴らしいなら、ガッキーの演技も実に魅力的だ。 ガッキーという女優は、私の中では「リーガル・ハイ」でのがむしゃら新人弁護士「黛真知子」としての印象が極めて強い。 彼女は作中で古美門にガニ股で色気のない女と評され、2期では羽生が現れた事でやっとビジュアルが本領を発揮し始めたかと思えば、 羽生の意中が実は古美門であったというあっぱれなオチが付いていたりと、一貫して残念な女として描かれている。 しかし、よく考えてみて欲しい。演じているのはあのガッキーである。どこをどう切り取っても残念な女とは到底言い難い彼女演じる 「黛真知子」に対して、小学生の時分に何らの疑問も抱かせず、「確かに黛はちっと芋くさいんだよな。それに比べて沢地さんは やたらとエロいな(確かに小池栄子はそもそもエッチな魅力のある女優なのだが)」、などと思わせていたのは、 新垣結衣の圧倒的な演技の魔力に他ならない。本作でも、カップルのイチャイチャを拒絶しながら寿司を食うシーン等から、 ひたすら残念で観客にため息をつかせてしまう程の哀れな女にしか見せないガッキーの演技は必見である。

さて、このガッキー演じる女であるが、単に行き遅れてしまっただけの哀れな人間ではない。
彼女と、境遇を同じくする佐々木が共に自らを称する宇宙人いう表現は、彼らの、人間味とはかけ離れた奇怪さをよく表しており、 終盤に描かれる彼らによる「後ろめたくないSEX」は彼らの宇宙人的な価値観をものの見事に体現した秀逸なシーンである。 ここで佐々木はSEXの種々所作を経て腰振りを終えたところで「普通の人達も大変だなあ」と呟くのだが、 「普通」である人々への一定の理解も示すという大事な瞬間をSEXにおける腰振りを通して消費してしまうやり方は本当に上手いと感じた。

さて、SEXをもの珍しそうに体験するガッキーだが、彼女は完全に宇宙人側に振り切っている訳でもない。 SEXを誘ったのがガッキーであるように、結婚後の彼女には卵焼きを作り過ぎてしまったり、かにクリームコロッケを二つ買ってしまったりと 「普通」の愛情を垣間見せるシーンが多い。

その一方で、佐々木の方はというと、手を組むことを提案した側ではありつつも、「人間とは付き合えなかった」と漏らしているように、 マヨネーズをぶちまけた食パンにかぶりついたり、水フェチ同好会の開催に心躍らせるなどガッキーとは対照的に描かれているシーンが多い。 だからこそ、ガッキーが同好会に興味を示した時などは、もしかすると佐々木は人間味を持って接してくるガッキーを拒絶してしまうのではないか と内心ドキドキしていたのだが、「みんな、一人じゃないといいね」や「後ろめたくないSEX」シーンでの「居なくならないで」という発言から、 不安が杞憂だったことがわかり、終始不穏であり続けた映画に一筋の希望を見出すことができた。

この宇宙人コンビの結婚の理由が「この世界で生きるために、手を組みませんか」である。 まるで漫画のような理由と言い回しに興奮しつつも、「普通」属性最強スキルの一つである結婚が、世間の興味、 感心を離れ風景に溶け込みたいと切に願う者達にとって最強の武器である事は間違いないので、少なからずそういう思惑 を抱えた既婚者が実在しても全く不思議ではないと思った。

さて、諸々と語ってきたが、最後に本作最大のテーマである「正欲」について語る。
先刻、自分達の価値観と世間の「普通」とのズレに苦悩する彼等に同情し、そんな彼等にも居場所ができたことに一筋の希望を抱いた私だが、 本物の「非正欲」の前では、彼等の価値観の一端である水フェチなど極々可愛いものでしかない。
大也の「誰が対象に何を思おうが自由である」という耳障りの良い言葉について、それを堂々と発することのできる彼も、 そしてそれを耳障りよく受け取ることのできる我々も、この言葉が、「社会に迷惑をかけない」という圧倒的な制約の元に成り立っていることには 気づかない。いや、気づいていないというよりも、その前提の外側を想定していない。 それは、大也、佐々木、そして面会したガッキー全員が語っていた「私たちは子供を傷つけていない。」という発言からよく分かる。
「正欲」とは、社会に迷惑をかけない性欲を指す。そして、本作でそれに反するものとして槍玉に挙げられているのが小児性愛である。 無論、小児性愛者だとしても、その性欲を頭の中にとどめておく限りは上記の制約に矛盾しない。しかし、それは彼等にAVを肴にオナニーに 勤しむことばかりか、SEXを含む恋愛すらも手放させることを意味するから、これで彼等の性欲にも権利があって守られているなどとは到底言い難い。

水フェチの彼等と同じように社会に馴染めず苦しんでいる小児性愛者も、「誰が対象に何を思おうが自由である」のだから 許されるべきではないのか?「正欲」はそういう問を我々に突きつけている。

この問に対して私がまず考えたのは、小児性愛者達が社会から排除されているという事実をどのように正当化することができるか、 ということである。
「社会に迷惑をかけない」という曖昧な制約の一言で済ませるには、余りにも彼等の損失は計り知れない。
そもそも、なぜ社会に迷惑をかけてはいけないのか?その答えは、我々が社会の構成員である以上、その母体に刃を向ける事は自らにも 刃を向けることに他ならないから、と言える。
しかし、そういう大きなイメージとしての社会に対する迷惑と、子供(個人)を傷つける行為は直結しない気がしてしまう。 そこで、私が代わりに社会に迷惑をかける行為の判断基準とするのは、個人への被害どうこうというよりも、社会の構成員が多数 であることを考慮した、その行為に対する是非の評価の割合という指標である。
例えば、それを良しとする者が大半を占める「街の掃除」や「挨拶」という行為については 満場一致で社会に迷惑をかけない行為であると言うことができる。
一方で、「喫煙」「飲酒」等の行為は人によって評価の分かれる項目で、確かにこれらを「社会に迷惑をかける行為」認定してよいかと問われると、 それが社会からの排除につながってしまうことからも待ったをかけてしまう。
では、小児性愛はどうかと言えば、様々な理由はあれど良しとしないという者が大半を占めるのであるから、 よって社会に迷惑をかける行為と判断することができる。
上記整理によって、ある属性の人々を社会から排除するという行為を正当化することができる。

しかし、正当化に必死になるほどに、結局どんな綺麗事も大義も、それが多数派であるから成り立っているに過ぎないという事実から 逃れられなくなる。
SNSで小児性愛という性欲そのものに対する心からの嫌悪とそれを理由とした社会からの排除を堂々と宣言する意見を見るたびに心が ザワザワする。
また、「正欲」でガッキーや佐々木らが社会にやっと居場所を見つけられた一方で、小児性愛という性欲を持ってしまった、 絶対に報われることのない者達の現実を思い、迷いが生じる。
その理由は、私が、我々が彼らから「持って生まれてしまった属性」を理由に幸せの享受を奪い、社会から排除してしまっているということに 罪悪感を抱いているからである。
その罪悪感を我々は決して忘れるべきではない。
また、そうすることがせめてもの彼等への償いになると思っている。