タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

ニック・ランドと新反動主義(思想書)(著:木澤佐登志)の感想

アベマプライムで宮台真司氏が軽妙に語っていた「加速主義」なるものが気になり、購入したのが本書だった。初めて触れる思想が「加速主義」 「暗黒啓蒙」というのをどう評価していいのやら今でも分かりかねるが、数年経った現段階では、私にとって暗黒啓蒙、加速主義はSF的世界観以上の 何者でもない。人間社会が失われたのとは別の必要としていることは理解できるが、本思想がその立場を担えるような代物であるとはとても思えない。 しかし、それでも当時の無知だった私に本書が与えた影響は大きく、衝撃の連続であった。

衝撃の一つは、暗黒啓蒙{現代社会で最早法律を超えたモラルのような存在となっている様々(進歩主義、平等主義、自由民主主義他)に対して反旗を翻す 思想の総称}がその矛先を向けた啓蒙「ポリコレ」についてである。そもそも、私はポリコレを10年代半ばの、Twitterの普及、安倍政権の長期化、 文春無双といった時代に誕生し瞬く間に勢力を拡大したムーブメントと認識していた。ポリコレを強く意識したのは、当時の私の娯楽の中心であった テレビバラエティにおいてであり、4〜5年前、高校生時の私は度々反ポリコレ的な演出の炎上に対しての懸念をツイートしていた。炎上の例を挙げると、 水曜日のダウンタウン「真・モンスターハウス(18.12.26放送)でクロちゃん氏がとしまえんに収監され、それを一目見ようと観衆が押し寄せたことについて、 暴れる観衆とそれを予知できなかった番組への批判や同「モンスターIDOL(19.11.6放送)」でクロ氏がナオ氏の涙を見たいがためにわざとアイドル合格者発表 での合格発表順を後ろに回したことについて、上司のおっさんのセクハラを我慢する部下に映って不快であるとの指摘などである。ともかく、ポリコレについて そういう認識を抱いていた私は、ポリコレが80年代生まれであったという事実に驚愕したのだった。数年どころではないタイムラグが発生したのには、 恐らく様々な要因が複合的に関係しているのに違いない。

ポリコレに対して容赦のない批判を浴びせる暗黒啓蒙論者達の思想もまた、当時のポリコレ=正義の風潮に自分なりの解を見出せていなかった 私にとって{但し、広義の意味で誰かを(自分も含めて)傷つける場合に発生する事象を指す言葉として認識している「お笑い」を、「誰も傷つけない笑い」 として再構築しようという動きには上記の通り全力で抵抗していたので、これを除く}、賛否を別にして衝撃的であった。例えば、80年代に学生だったピーター ・ティールはポリコレを「言いたいことを言うことができる権利の制限」と称して批判した。確かに、ポリコレが今まで言いたいことを言えなかった者たちの ための運動であるのに対して、それによって逆に言いたいことを言えなくなってしまった者たちがいるということは皮肉でしかない。何より、この言説が単なる 言葉遊びにとどまらず、何十年経った現在において世界を分断する壁としての機能を果たしている事に驚く。一方、ニーチェはポリコレの理想である「平等」 に対して、それを信奉する心理にはルサンチマンがあると指摘し、権力にありつくことができないという嫉妬心から、我々に対して等しくない全ての者に復讐と 誹謗を企てようという意思から来るものであると断罪している。これは誰もが口に出すことを憚られる真理の一面を捉えた魅力的で危険な言説である。

暗黒啓蒙の代表者であるニック・ランドは、カントをポリコレの生みの親とも言える「近代啓蒙」の普及における重要な立役者の一人であると分析 したうえで批判している。それは、植民地主義に始まる西洋列強の外部世界への拡大にあたって、カントの、人間は他者を主観を構成する認識作用によって 認識することができるという論が、他者性を圧殺するという意味で、或いは自己の同一性を保ったままに他者を自己の内部に取り込むことができるという意味で 重要な役割を果たしたということである。これもまた、カントについて、「永遠平和のために」が現代の安全保障にも通ずる場面があること(21世紀の戦争と 平和:著.三浦瑠麗)といった、良心的思想の数々の祖のようなイメージしか抱いていなかった私にとって実に興味深いものであった。

筆者は加速主義の、テクノロジーがやがて人間の地平を超えて秩序が崩壊するほどの変革を社会にもたらすであろうという主張とレヴィ=ストロース、 フーコー、フロイト等の哲学偉人達の思想との部分的類似性を指摘しつつも、偉人達が人間に対して未練を残す姿勢を中途半端であると評するランドが、 やはり彼らとは異なる立場であることを強調する。ランド曰く、「人間、それは乗り越えられるべき何か...である」。 このセリフは、シラス(放送プラットフォーム)での東浩紀氏の発言(例えば、2023年2月28日公開「東浩紀突発#89無の突発。今年ももう6分の1が終わった。」 など。しかし、特定回に限らず何度も発言しているし、恐らく新著訂正可能性の哲学でも言及しているのではなかろうか)を想起させる。氏曰く、 人間は我々が思っているよりも相当に面倒かつ頑固で、容易にテクノロジーが打ち勝てるような相手ではないという。その際に氏が挙げる例として、 人間が絵やメロディに感動する時、彼らはその背景にいるそれを創った人間の存在を含めた物に対して感動しているのだろうから、自動生成AIがどんなに 上手い絵や曲を創ろうとも、人間がそれに惹かれ、満足することは難しいだろうというものがある。

ここからは私の私見だが、そういう人間の厄介さとか複雑さというのは乗り越えることもできないし、だとすれば乗り越えるべきでもない最低限のルールの ようなものであるように感じる。ここで言う最低限のルールとは、ある枠内で目的を達成するために創意工夫を行うが、その枠自体を破壊してしまうような それは許されないし、参加者自身もそれを望まないという時の破壊を防ぐためのルールを指している。それは例えばサッカー(枠)で言えば手を使わない (目的:サッカーを楽しむ)ことであり、対戦ゲーム(枠)に改造データを持ち込まない(目的:相手に勝つ)ことであり、ネットカフェやブックオフや1日1話無料の アプリは使っても漫画村は使わない(枠:社会に対して大っぴらにできる趣味としての漫画、目的:漫画を効率的に読む)ということである。つまり、人間はその 枠内で人間にとり、より快楽を得たいという目的を追求し続けるが、そこには人間より上位の存在を許さないという最低限のルールが存在しているように 感じてならないのだ。

冒頭に言った通り、私は、失われた未来を受け入れてしまいどこか投げやりで、情熱を捨てない者たち(ポリコレとか)に対する嘲笑を行う一方、 ひたすら無垢にテクノロジーの進歩を礼賛する矛盾した態度に満ちた本思想に本気で肩入れすることはできない。果たして宮台真司がどこまで本気なのか 分かりかねる部分があるが、それはそれとして、当たり前や常識に対して正面からその意味を問う彼らの姿勢からは多くを学ぶことができるし、 そういう体の良いこととは別にSF的世界観としてこれほど想像力を掻き立てワクワクさせてくれるものはないと思っている。

80年代のポリコレ p21
言いたいことを言える権利の制限 p24
平等主義とルサンチマン p36
カント p104
乗り越えられるべき人間 p112