タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

何者(作:朝井リョウ)の感想

実は本書はかつて友人に勧められたことがある。正確な時期は覚えていないが、大学3年次、つまり就活真っ只中と言える時期よりは前だった。 しかし、私の期の時点で就活サイトがオープンしたのは12月1日ではなく6月1日と、就活が順調に早期化していたので、そういう意味では 就活自体は既にスタートした後だったのかもしれない。そう考えると、後々就活で苦労することになる友人は、そういう時期に突入する前、 一方私は就活時期を過ぎて最早一ミリも自分ごととして捉えられなくなった今時くらいに本書に出会えて幸運だったのかもしれない。 恐らくだが、最も辛い時期に就活がテーマだからと安易に本書に手を出すと後悔しそうな気がする。

とはいえ、私自身は本書で描かれているような就活というのはほとんど味わっていない。一方で私にこの本を勧めてくれた彼は、10月になってもまだ内定を 得ていなかったようで、高円寺で久々に飲んだ時にそれを聞いて驚いた記憶がある。その時点で、彼が面接を受けた会社数は50社はくだらなかったような 気もするしそれはエントリーシートを書いた数だったような気もする。いつも飄々としている彼は、そんな状況でも以外と元気だよなんて言っていて、 普通ならそれは強がりにしか聞こえないのだろうが、彼に限っては本心なのかもわからない。 本書のようないわゆる就活を嫌というほど味わったであろう彼なら、私とは異なった感情を本書に対して抱くはずだから、今度仕事終わりにでも「何者」に ついてじっくり語ってみたい。

さて、前述したように、いわゆる就活を経験していない私ではあるが、友人達の近況や、大学の雰囲気、もっと言えばSNSや各種就活アプリ等を通して 就活なるものは色濃く私のあの1年半に刻まれている。
「何で全員同じタイミングで自己分析なんか始めなきゃいけないんだ?働き始めるタイミングなんて人それぞれでいいはずなのに。」
「なんかみんなさ、すげえ考えてんの。これからの出版業界のこととか、どういう企画やりたいとか、すげえ熱く語れんの、すでに」
上記の台詞は、当時の私の就活に対する悶々とした想いを呼び起こした。3年の始め頃、官僚志望だった私はひたすら試験勉強に励んでいた。勉強の片手間、 LINEやYouTubeやTwitterを開くと、いつしかひっきりなしに「23卒」の文句と共に就活支援サイトやインターン募集企業の広告が表示されるようになっていた。 それが直接は自分に関係ないとはわかっていても、何だか急かされているように感じて嫌だった。図ったように一斉に、何故このタイミングからなのだろうと 思った。それまで、皆それぞれ自由気ままに大学生活を満喫していた友人達は、突然自分の進路に向き合うことを余儀なくされて、困惑していた。

私自身は、自分の進みたい道を早めに確定させることができていたから、大学を卒業してすぐに働き始めるという現行制度によって、特に被害を被った という自覚はない。また、急かされることで本腰を入れて自分と向き合い、己の天職を見つけることができた者は、むしろ恩恵を受けたと言っても過言では ないだろう。しかし、そうではない者達にとってはどうだったのだろう。つまり、急かされ、焦り就活に向き合ったものの、本当に自分のやりたいことに最後 まで気づけなかった者たち。私はそういう者たちが大多数なのではないかと思っている。 だとしたら、日本は多くの若者にとって不幸な道を選択していることになる。しかし、実は現行制度は横並びを好む日本人の習性と合っていて、 だとすると私が理想とする、自分のペースで職を探すなんて事がそもそも成り立たなくなってしまうから、話はそう単純でもない。しかし、 当時そんなようなことを考えながら社会学やら数的処理に勤しんでいた私は、隆良の上記の疑問に共感できる部分もあったし、光太郎は急かされてデメリット を被った方の人間なのかもしれないなと思ったりた。

本書は就活小説でありながら、就活を通して人間の汚い性を巧みに浮かび上がらせている。それまで、ギンジに、隆良に理香を拓人が語り部として 批判し通しで進んでいた物語は、登場人物の中でも長老的立ち位置のサワ先輩に拓人が真っ二つにされることで転回を迎える。主人公否定で終わる物語 というのは確かに珍しいが、だとしてもそれまで全く主人公の心理に疑問を抱かなかった私は、間違いなく拓人側の人間なのだろう。
「誰がうまくいってもつまらないんでしょ。拓人くんは、みんな、自分よりは不幸であってほしいって思ってる。」
この、他人の不幸を精神安定剤としているというエピソードはブルーピリオドの桑名の発言にも見られた。これは程度の差はあれど人間誰しも持つ 悪感情の一つだろう。

「どっかで『君は他の子と違って面白い考え方をしてるね』なんて評価されることを期待してたんじゃないの?」
私にもそういう節がある。まだ、自分が他人とは違うと思うところまではいい。そういう思い込みで精神を安定させるというタイプの人間もいるだろうからだ。 しかし、だから受動態で居ていいとはならない。自分が特別な人間だったとして、誰かに見つけてもらえるという根拠は?良き理解者に出会える確率は? いや、そもそも自分が特別な人間でも何でもなかったとしたら?
「カッコ悪い姿のまま、がむしゃらにあがく。その方法から逃げてしまったらもう、他に選択肢なんてないんだから」
そういう特別主観受動態人間には、この言葉が響く。自分の本当の欲望に向き合い、さらけ出し、がむしゃらになれた時、きっと新しい景色が見えてくる のだろう。
「誰に何を言われても、一か月に一度公演をし続けるなんて、最高にカッコ悪くて最高に正しい姿じゃない。…いくらつまらないって叩かれても、 他人に点数をつけてもらうことを絶対にやめなかった。」
何より、がむしゃらに頑張り続ける最高にダサい彼らを否定し続けていた自分のカッコ悪さに気づくことができて良かった。それを教えてくれた「何者」に 感謝したい。

p51 12月1日始動。
p85 働き始めるタイミングなんて人それぞれでいいはずなのに。
p291 すげえ熱く語れんの、すでに
p303 みんな、自分よりは不幸であってほしいって思ってる
p312 カッコ悪い姿のまま、がむしゃらにあがく。
p313 君は他の子と違って面白い考え方をしてるね
p314 誰に何を言われても、一か月に一度公演をし続けるなんて、最高にカッコ悪くて最高に正しい姿じゃない。