タケル・イダイヤの冒険

とにかく感想

福田村事件(映画)(監督:森達也)の感想

向里祐香が爺さんの死体を前に服を脱ぎ出すシーンに息を呑んだ。東出昌大と田中麗奈の舟上不倫性交をじっと見下ろし、直後に田中の前に背中を 差し出し、「湯の花」を入れて浸かろうかと言葉をかける井浦新と、その「済まない」はわかったと笑みをこぼす田中。コムアイは豆腐に指輪を入れ、 向里は新しい馬を買おうと平然と言ってのける。

本作では地震、虐殺というメインテーマをふと忘れさせてしまうくらいの濃厚な人間関係を魅力的に描く。それらは、被害者側の行商人達も含めて、 何気ない日常(前者は何気ないとも言い難いのだが)の危うさを教えてくれるのだが、本作では別の意味も感じた。

上記の東出、田中、向里、コムアイは夫婦は貞操を守るべきという「空気」を壊す存在だ。戦死も覚悟の上と言い放つ青年を腐す東出、デモクラシーを説く 村長、社会主義者の男に、女性記者も、軍人を崇め天皇を崇め戦争を讃美する「空気」に抗う存在である。彼らは作中を流れる常識やルールに家族、仲間、 社会のために立ち向かっていく。或いは、自分の生きやすいようにしているだけにも映る。平常時は疎まれ、蔑まれる彼らだが、「空気」が危険を帯びたとき 彼らは真価を発揮する。東出が、村長が、田中が「空気」に立ち向かう。そして、「空気」に呑まれたことを悔やんでいた井浦も意を決する。 瑛太もそれらに呼応するように激震の一言を放つ。一瞬「空気」は壊れたように思えたが、一人の些細な行動がきっかけで押し戻された 「空気」に呑まれた人間たちの暴走が取り返しのつかない悲劇を起こす。

「空気」が人間の本性を呼び起こした。昔の人間が野蛮で残酷だった訳ではない。ウクライナではブチャの虐殺が起きている。 大分と状況は変わるが、数年前に神戸の学校で教師が同僚たちに激辛カレーを顔中に塗りたくられる事件が起きた。これを獣の所業と言わずして何という。 残酷で非道、それが人間の本性だ。いくら法律を作ろうが、科学を発達させようが、GDPを高めようが、「空気」が整いさえすれば、 温厚で理知的な人間の性の根にある獣が牙を剥き平気で命を奪う。

だから、私たちは自らがそういう生物であることを心の奥底で自覚しなければならない。そして、その上で普段から世を流れる 「空気」が如何なるものかを冷静に見極め、それがおかしいと感じた時は一歩足を踏み出し、そして一歩を踏み出した人間を笑わず、 真正面から見つめなければならない。それが、いつか本当に来たるべきその瞬間に、もしかしたら何かのためになることがあるかもしれないと思った。