鈴木亮平の演技がエグい。これに尽きる。彼は間違いなく人情味に溢れた
ゲイのコウスケだった。挙げればきりがないが、例えばゲイ達の会話のシーン。
ここは、まあ鈴木も含めた彼らの演技が凄すぎて、本物のゲイの飲み会
(本物は知らないけど)にしか感じられなかったのだが、「ポイポイポイポイ、
あんた我慢してるって食い方じゃないわよ」には普通に笑ってしまった。
また、「(今LINE返信中だから)ちょっと待って!!」のまあ自然なこと。
そして酔っ払いゲイ達の急なダンス!!更に、コウスケの恐らく夜?内面が体現化
された一人舞台はまた格別である。私も時々一人舞台を敢行することがあるが、
あの時の私はまさしくスターなのである。
他にも、リョウタ(宮沢氷魚)が小銭を落としたシーンの「もうすいませんね
うちの主人が」感は堪らない。そして炒め物の食い方とか。とにかく鈴木亮平が
大暴れしていた。
エゴと聞くと大抵、人に迷惑をかける的な、何か良からぬことを想像する。
実際、私も映画を観ながら序盤では、どいつがエゴイストなんだ?と訝っていた。
そういう意味では、エゴイストは全員だった、というのが適切な感想だろうか。
コウスケは毎回トレーニング後にリョウタに対して母への高価なプレゼント
を渡していた。あれは、コウスケのエゴである。リョウタを買ったのも、
リョウタに車をプレゼントしたのもコウスケのエゴである。
一方で、コウスケへの恩に報いたいと想い、更に言えば母を助けたいと頑張った
リョウタの行動もエゴである。リョウタは、コウスケから毎月生活費を援助して
もらっていたからこそ、早く一人前になりたいと思い無理をしたのかもしれない。
だとしたら、コウスケのエゴがリョウタを殺したことになる。あるいは、
リョウタは自らのエゴで死んだのか。これを聞いたあなたは、一瞬なんて酷いこと
を言うものだと思ったかもしれない。
しかし、裏を返して、エゴは必ずしも悪いものではない、いや、良いことも
悪いことも引っくるめて全ての誰かの行動はその人のエゴに過ぎないと考えると、
納得がいくのではないだろうか。このことをそっと心に秘めて置けば、我々は、
今後施される側になる時は、100%の負債?を背負う必要はないし、
施す側になる時は、それで完全な債権を得たなどとは思わずに済むのでは
ないだろうか。
最後の、リョウタのお母さんのエゴは、この上なく素敵で愛に溢れた
エゴであったに違いない。
確かにその通りなのである。マッチングアプリ等が普及したのもあり、
ふと、「世界のどこかにいる運命の人」と出会えるのではないかと思うことが
ある。
しかし、たまたま同じ年に同じ街に生まれ同じクラスになり席が隣になっただけの
相手と、一生を添い遂げるなんてことがままある世界なのである。古来、人間が
そうやって愛を育んできたことを我々は忘れてはならない。